薬 師 7

 十一日月、賀茂保憲邸の離れは息が詰まるほどに人口密度が高かった。そしてその閉じられた場には、本来なら膝を付き合わせてしまえるような距離にいることは愚か、こうして同じ空間で事もあろうか対面で座している事など有り得ない光景が広がっていた。上座に源重信、下座に奥から橘黄花望来、橘蒼実時行、それから出口近くに賀茂保憲が座していた。今丁度、非礼の詫びと一通りの挨拶が済んだ後だった。保憲は三人の前に底の広い湯飲みと小皿を人数分置いて、静かに一礼した後去っていった。人払いをしてある為、この空間に三人だけが残された。

 湯飲みの中では桜の花の塩漬けがお湯の中でふわりと舞っていた。小皿に盛られたものははちすの実を干した物だった。それぞれの香りが、少しばかり甘やかな香に融和する。これら全ては時行が持ってきたものだった。それは香りが人の心を操れることを知った上での彼の選択だった。

 書簡には名乗れない事、弟こと時行は話せないことなどは伝えてあった。名は好きに呼んでいい事を伝えていたが、予め決めてはいなかったようで、重信は二人を見ながら少し躊躇いがちに名を告げた。

「兄を紫石しせき殿。弟を二十三夜ふみやす殿。ということでよろしいか?」

 語尾は疑問系だったが、元より二人には否定する権限はない。時行が頷いたのを確認してから、望来が静かにはっきりと「はい。」と答えた。するとそれを受けた重信は、二人に対してどういう字を書くのかを説明した。

「そうだ。約束を守らねばな。」

 そう言って重信は懐に手を伸ばした。望来が時行の袖を軽く引っ張り、合図を送る。鈴が懐から出されるのと時行が両手を差し出すのがほぼ同じだった。鈴をたなごごろに乗せる前に、重信は鈴の音を出してみせた。見た目だけではなく、材質も全て拾った時と同じものだという証に。

 時行の掌に鈴がそっと置かれ、兄弟は揃って頭を下げる。望来が礼を述べ終えたのを見計らってから、時行が鈴を白い絹の布に包んで懐へと仕舞う。

「幾つか尋ねたいのだが・・・・・・。」

 この若き公達は、少しばかり頬を紅潮させ、嬉しさを隠しきれない様子で問う。博雅同様、彼もまた殿上人としての経験は浅かった。子供らしい好奇心が表面へ顔を出すのも無理ならぬ話だろう。その証拠に瞳が陸離していた。無表情ではあるが冷たい印象を持たせないよう雰囲気で緩和しながら、望来が柔らかく肯定の意を示す。

「何故あのような時間、あのような場所でに舞いを舞っていたのだ?」

 二十三夜の月が昇る深更、飛香舎に程近い陰明門で、時行はその身に様々な大きさの様々な音の出る鈴を纏い、異国の装いで異国の舞踏を独り踊っていた。まるで二十三夜の月だけに見せるかのように。

「しょう。と申せばよろしいでしょうか。」

 重信の知識を探るかのように、望来は故意に専門的な言葉を選んだ。そしてその言葉が理解出来ていないと踏んだ彼は、言葉を選びながら順を追って説明を始めた。

 門は異界との出入り口となり、内側と外側を分けるもの。壁と違って開閉が出来る事から、見方によっては結界の綻びと見なす事も出来る。その周囲の土地の陰陽の均衡が崩れていたので、その均衡をある程度整えたのだと、望来は説明した。、

「結界の張り直しとは違うのか?」

 その重信の疑問に答えるべきか否か迷った望来は、弟の手を取り掌に何かを書き付ける。時行は兄を見上げ、被衣から出ている唇を少しばかり動かした。望来は取った弟の手を元に戻すと、居住まいを正して重信に向き直った。

「内裏の結界を張るのはあくまで陰陽寮の方々であり、わたくし達はお教えすることしか出来ませぬ。舞踏していたのは、乱れによって引き寄せられた者達への慰めです。彼等とて力づくで平定されたくはないでしょうから。」

 かすかな笑みが望来の顔に浮かぶ。その笑みを見た重信は何となく居心地の悪さを感じ、出された桜湯を一口口に含んだ。

「優しいのですね。」

 重信が湯呑みを置くと同時に、彼の口からそう素直な感想が漏れる。少しばかり笑みを深くし、伏せ目勝ちに望来が首を左右に振る。

「・・・・・・そなた達は一体何者なのだ?」

「えん天才てんのさいを持たぬ、只のゆうでくでございますよ。」

 答えを用意していたかのように、望来はするりと質問をかわす。重信が得た答えは、内裏勤めの役人である事には間違いはない。ということだけであった。

 「そう言えば・・・・・。」

 ふと何かを思い出したらしく、重信の視線が望来から時行へと移る。今まで少し俯き加減だった時行が顔を上げて首を傾げ、重信の次の言葉を待った。

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